近くに所用で行ったので、ふと思いついて荒浜小学校に立寄ってみました。
東日本大震災後、石巻、女川、気仙沼、閖上、大川小学校など様々な津波被災地を見てきました。行く先々で強い衝撃を受けているので、震災遺構となった荒浜小学校に、敢えて行く必要があるのか?と、これまで行かずにいたのです。
1~2年位前に、荒浜に比較的近い蒲生干潟に行った際、高い堤防が築かれていたことに複雑な心境になったことも、荒浜小学校に足や気持ちが向かない理由の1つだったかもしれません。
昨日は平日の午後ということもあったのかもしれませんが、私以外に見学者はおらず、野鳥の鳴き声と風の音と、すぐ側の復興道路を走る車の音だけが聞こえるような静かさの中に小学校はありました。
荒浜小学校の屋上から見た風景です。かつての集落があった場所。海が見えます。
4階には、震災前の街を再現したジオラマが展示してありました。
正直、屋上から見た風景とジオラマで再現されているかつての集落が結びつかなかったです。それほどの時間が過ぎた、ということでしょうか。
3階は見ることができませんが、資料によれば、3階と4階は避難所として使われ、3階には仮設のトイレまで設置されていたそうです。
「校舎内に仮設トイレ!」。これが今回、はじめに驚いたことでした。
他の被災地では、「屋上に船が乗っかっている!」とか、普段は海など意識しないような海岸から少し離れた田んぼの中に車があったとか外や外から見た光景だけでした。
今回はじめて被災した建物内部から見た風景です。
「平野」、「遠くに見える海」、「2階」というこの3点がセットになったとき、改めて東日本大震災での津波の脅威を感じました。
下の写真は、上の写真の部分を外から写したものです。
帰る前に、校舎の裏手に回ってみました。
小学校の敷地の外の光景です。
わかりづらいのですが、フェンスの向こうの藪の中、写真の右端に、やかんが転がっているのが見えました。
震災の時のままなのか、あるいは、その後の工事関係者などが忘れたものなのかわかりません。
でも私にはそのやかんが、「ここに確かに人が住んでいた」ということを表す痕跡に思えたのです。
東北の太平洋側の海岸線に行くと、至る所こうした光景ばかりで、感覚がだんだん麻痺してくるような気がします。
かなり多くの場所が、新たな敷地・施設が生まれ、復旧・復興を遂げているように見えますし、うれしいことにも思えます。
けれども足元を見れば、震災前の、その土地での人々の日常をうかがわせるものがところどころに残っており、恐らくは、そこで生活していた人たちの心にも消すことのできない何かとして存在している。
そうしたものを復興の過程と共に忘れて良いものなのか、忘れることがやむを得ないことなのか、忘れてはならないものなのか、私にはわかりません。
ただ、そこに生活があって、生活していた人たちがいて、その人たちの気持ちを大切にするということ。
その上でこれからのことを考えること。語ること。それだけが確かなことのように、私には思えます。かなり曖昧ではありますが。
震災遺構荒浜小学校は、JR仙台駅から車で20~30分ほどのところにあります。