「親の終活」は伴歩者のつもりで!

昨日の夕方、Googleニュースをチェックしていたら、こんな記事が載っていました。

実家の親の「老い支度」 遺言や任意後見は説得より並走 – 日本経済新聞 (nikkei.com)

この記事は筆者の反省をもとに書かれたようで、共感するところが多かったです。

「終活をしてくれ」

「不要なものを処分してほしい」

「遺言を書いてほしい」

・・・・

相続手続の手間や、仕事の合間に行うことによる自分の時間の消費などを考えると、お子様方が親御さんに「~してほしい」と願う気持ちはわからないでもありません。

 でも、親御さんが、なかなか終活に身が入らない気持ちも理解できるような気がします。

 「『遺言』って、自分がもうじき死んでしまうような気がして、嫌なんだよね」とおっしゃっていた方を、ときどき思い出します。

 物を捨てることの難しさも、私は身をもって知っています。

 他人に自分の事を委ねることへの抵抗感も分かる気がします。

 そもそも高齢者の皆さんは、子供とは違います。

 子供は「できなかったことが、少しずつできていく」「分からなかったことを理解できるようになっていく」存在です。

 一方、高齢者は少し前まで自分の力で多くのことをこなしてきた方々です。「出来ていたことができなくなっていく」とか「覚えていたことを思い出せなくなっていく」ことが増えていく。そうした現実を受け入れるには時間が必要なんだろうと私は思うのです。

 だから私は、「高齢者の終活を支援するには伴歩者のつもりでいることが必要なんだろう」と考えるようになりました。

 伴歩者というのは私の造語です。

 視覚障害者のマラソンにはガイドランナーという伴走者が一緒に走っているのをパラリンピックで御覧になった方もいるでしょう。

 主役はもちろん選手である視覚障害者です。その選手が安心して走れるように、コースの状況や障害物の有無を伝えるだけでなく、ペース配分などにも気を配るのが伴走者の役割。

 その伴走者にとって大切なことは、選手の気持ちを想像して声をかけること。

 選手が楽しく楽に走れるように心がけること。

 逆に慎むべきは「私を信頼して!」という信頼の押し付けだそうです。

※詳しくは日本ブラインドマラソン協会のWebサイトを御覧ください。

 高齢者に寄り添う人にとって、この伴走者の役割や心構えは重要なヒントになると思います。

 ただ、高齢者なので走るスピードよりも、のんびり歩くような、時には一緒に立ち止まって休憩をするような速さが適切かなと。

 だから伴歩

 読み方としては「ばんぽ」と読むのが自然な感じがしますが、私は「バンブー」と言ったりします。(ま、造語なのでどちらでも良いのですが...。)

 バンブーは竹のこと。

 竹の花は数十年から百年の周期で咲くそうです。真竹の場合は120年と言われています。竹の花を見たかったら、とにかく気長に待つしかない。急かすこともなく、竹の都合に合わせてのんびりと。

 竹の花言葉は節度。

 伴に歩くにも一定の節度は大切かなという戒めにも。

※「竹の花は不吉」という迷信があるようです。数十年から120年位に1度しか咲かない竹には、まだよくわからないことが多い。その「わからなさ」が生む迷信だと私は思います。

身近で不思議なタケの生態に迫る!:農林水産省 (maff.go.jp)

 次の開花は2080年!? 120年に1度しか咲かない竹の花は不吉なことが起こる前触れ?/毎日雑学 | ダ・ヴィンチWeb (ddnavi.com)

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